Netflix映画『超かぐや姫!』ネタバレ感想・考察|歌詞と芦花まで語りたくなる映画

水彩タッチの背景に、中央に「超かぐや姫!/二周目で刺さる伏線とパンケーキの意味」と描かれたアイキャッチ
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冒頭にだけ、はっきり書きます。
この記事はNetflix映画『超かぐや姫!』の重大なネタバレを含みます。
未視聴の人は、先に観てから戻ってきてほしい。
ネタバレなし初見で見る楽しみを捨ててはいけない。

この記事は、Netflixで『超かぐや姫!』を実際に見て、その後に見返したり
歌詞や裏設定も追いながら「あれってそういう意味だったのか」と
感想がどんどん変わっていった、自分のネタバレ感想・考察です。
最新情報を整理するまとめ記事ではなく、その日に自分が見て感じたこと
あとから引っかかってきた違和感や発見を中心に書いています。

最初は「話題作だし一応見ておくか」くらいの気持ちでNetflixを再生した。
寝転がって、スマホでも触りながら、そのくらいの温度感だった。

でも『超かぐや姫!』は、もう序盤でスマホを机に置いた。
あっ、これちゃんと見たいやつだ、って直感した。

映像や音楽に引き込まれるのはもちろん、日常の会話、小道具、言い回し
何気ない表情まで、後半の“伏線”として置かれている感じがある。
だからぼんやり見ていると見逃してしまいそうになるし
実際、見終わったあとに「あれってそういう意味だったのか」が何度も起きる。

しかもこの作品、メインのかぐや・彩葉・ヤチヨの3人だけで終わらない。
見返すほどヤチヨの正体や歌詞の意味が変わっていくし
さらに綾紬芦花(あやつむぎろか)みたいなサブキャラまで
裏設定を知ることで急に見え方が変わる。
ストーリーの設定だけじゃなく、キャラ設定にも仕込みがありすぎる。
そりゃ、見たあとにオタクが勝手に語り始めるよね、という気持ちになっている。


目次

『超かぐや姫!』感想|流し見を許さない映画だった理由

『超かぐや姫!』を見始めた時は、本当に軽い気持ちだった。
話題になっているし、とりあえず見ておくか。そのくらいで再生した。

自分はアニメを四六時中追っているタイプではない。
でもオリンピックの周期くらいで、「あ、今ちょっとアニメ見るか」みたいなタイミングが来る。
今回はたぶんその周期だったし、振り返るとあの時点で呼ばれていたんだと思う。

で、実際に見始めたら、序盤で「これ流し見する作品じゃないな」とわかった。

この映画、派手な展開だけで引っ張るタイプではない。
一見すると軽いやり取りやかわいい日常に見えるものが、あとから別の意味を持って戻ってくる。
その置き方が上手いから、途中で「あ、これ適当に見たらもったいないやつだ」となる。

最初に見た時は、まず物語を追うので精一杯だった。
かぐや、彩葉、ヤチヨ、それぞれの関係を理解して、ツクヨミという世界を飲み込んで、ライブやバトルの気持ちよさを受け取っていく。
それだけでも十分楽しい。

でも見終わってから振り返ると、この映画の本当の性格はそこだけじゃない。
一度見て終わる映画じゃなくて、見返すことで意味が見えてくる映画なんだと思う。
初見では通り過ぎた会話や表情が、あとから「あれ、そういう意味だったのか」に変わっていく。
『超かぐや姫!』の面白さがそこにある。


『超かぐや姫!』あらすじ(ネタバレ最小)|現代の竹取物語はツクヨミで始まる

作中には、誰もが自分のアバターで楽しめる仮想空間<ツクヨミ>がある。
主人公のひとりは女子高生の酒寄彩葉(いろは)。

ある日、彩葉は七色に光り輝く“ゲーミング電柱”から赤ちゃんを見つけてしまい、連れ帰ることになる。
この時点でかなり絵面が面白いゲーミング電柱から赤ちゃん。

しかもこのとき、彩葉がちゃんと通報しようとするのが現代的でいい。
でも「電柱が光って中から赤ちゃんが……」なんて、どう考えても頭おかしい人の会話になるので、案の定うまくいかない。
その結果、「今大丈夫になりました!」と電話を切ってしまう。
物語の中で現実的に対処しようとした時の行政との相性の悪さが、もう笑うしかない。

赤ちゃんはすくすくと成長し、「かぐや」と名付けられる。
彩葉とかぐやはライバーとして活動し、日常を重ねていく
やがて竹取物語の骨格どおり、かぐやを迎えに来る存在が現れる。

設定だけ抜き出すとかなり現代的でポップなのに、根っこにはちゃんと竹取物語が流れている。
しかもただの焼き直しではなく、配信文化やVR、アバター文化を通して組み直してくる。
この“現代の竹取物語”としての手触りが、最初から最後までかなりおもしろかった。


『超かぐや姫!』考察|「自分でハッピーエンドにする」が作品の柱だった

この作品を見終わってから、序盤で竹取物語を見た後のかぐやのセリフがずっと残っている。

「続きは?月に帰って終わり!?なにそれ超バッドエンド!」
「決めた 自分でハッピーエンドにする!」
「そんでハッピーエンドまで彩葉も連れてく 一緒に」

初見では、勢いのある元気なセリフに見える。
でも見終わってから振り返ると、これはもう作品全体の背骨だったんだなと思う。

大事なのは「ハッピーエンドがいい」という願いではなく、
“自分でハッピーエンドにする”という姿勢なんだと思う。

良い結末を待つだけじゃなく、自分が結末を作る側に立つ。
この姿勢が序盤にかぐやから出てきて、後半では彩葉へ受け渡される。

終盤で彩葉が

「わかった…まだなんだ、このお話にはまだ続きがある。
私、やりたいことができた!本当のハッピーエンドまで付き合ってよね」

と言うところに繋がっていく。

最初はかぐやが「自分でハッピーエンドにする」と言う。
後半では彩葉が「ハッピーエンドまで付き合ってよね」と言う。
ハッピーエンドにする側が入れ替わる。

『超かぐや姫!』は、ただ感動的な終わり方をする映画ではなくて、
ハッピーエンドを目指す者たちの映画だったと思う。


パンケーキの伏線を考察|味覚と体温が後半で冗談じゃなくなる

この映画、パンケーキが何度か出てくる。
最初は「日常のかわいい小道具」くらいにしか見えない。
でも後半になると、あれがただの食べ物じゃなくなる。

合同ライブ前の会話がそうだ。

かぐや「練習しすぎてお腹空いた~終わったらパンケーキ食べよ」
彩葉「緊張でご飯食べれんかったよ」
ヤチヨ「パンケーキいいな ヤチヨも食べたいなー」
かぐや「一緒食べる?」
ヤチヨ「よよよ~ヤチヨは電子の海の歌姫なので食べられないのです」

初見では、ここは軽く流れる。
ヤチヨのテンションもギャグっぽいし、その場の会話として受け取ってしまう。

さらに、ヤチヨが食べられないと聞いたかぐやが

「えー!それ何の拷問!?かぐやだったら絶対無理~」

でも見終わったあとだと、ここが急に重みを持ってくる。

電子の存在だから食べられない。
味覚がない。
体温もない。
それは、生きているのに“リアル”が欠けている状態だ。

パンケーキって、本来は幸福の記号みたいな食べ物だと思う。
かわいいし、甘いし、日常っぽい。
でもこの作品ではそこに、味覚、体温、触れられること、生きる手触りみたいなものが乗ってくる。
小道具の意味を後半で大きくしてくるのが、すごくうまい。

そしてラストでリアルに復活したかぐやが、久々の重力に「重~」と言いながら二言目で「パンケーキ!」と言うのがまたいい。
あれだけの時間と喪失を越えてきたあとで、最初の願いがパンケーキというのが、ちゃんと生活に戻ってくる感じがした。

スタッフロール終わってから、最後にツクヨミの全体が見えるEND
その世界がパンケーキの形って、まさに超かぐや姫はパンケーキで終わる作品でもあるくらい
パンケーキと超かぐや姫の象徴でもあった。

パンケーキ会話から後のライブ前の会話

ライブ開始前に彩葉がヤチヨに声をかける

彩葉「ヤチヨのデビュー曲ってもう歌わないの?」
ヤチヨ「あれはもう届いたからお役目完了ー」

初見では「?」で流れた。
でも見終わったあとだと、誰に届いたのかがわかるようになっている。

舞台挨拶を知って見返すと、ヤチヨの一滴は汗ではなく涙になる

初見では気づかなかったけれど、あとから印象が大きく変わったのがヤチヨの一滴だった。

ライブシーン『Ex-Otogibanashi』で、「きっと永遠だった 逢いたいと願うまで そうよ私」
このシーンでヤチヨに“流れるもの”が描かれている。
正直、最初は汗っぽく見えた。
直後にかぐやにも似た描写があるので、ライブの熱量として受け取ってしまっていた。

でも、舞台挨拶レポートで、監督が早見沙織さんの歌声に感情が乗っていたから
後から描写を追加したと話していたのを知って、あの一滴の意味が一気に変わった。
あれは汗じゃなくて涙だったのか、と。

涙だとわかった瞬間、ライブシーン全体の重さが変わる。
ただ歌っているのではなく、今ここで再び重なる感情があったのだと見えてくる。

裏話を知らなければ、自分はたぶん見返しても汗だと思っていた気がする。
でも知ってからは、もうあれを軽くは見られなかった。

「キミと今見てるこの景色 何億回思い出したろう」

この歌詞はヤチヨ=かぐやの真相を知ったあとだと
8000年のあいだ何億回も思い出して支えにしていた光景と読める。

「キミと今見てるこの景色 何億回夢見ただろう」

そして未来にこの景色が待っているのを知っているからこそ八千代を超えてこられた。
かつてはかぐやとして見た景色を何億回と思い出し
そして未来ではヤチヨとして見ることになる景色を何億回夢見た。

2周目では歌詞ですら涙腺を刺激してくる。

『Ex-Otogibanashi』の2番歌詞は彩葉との疑似会話だった

ヤチヨ=かぐやの真相を知ったあとで『Ex-Otogibanashi』を聞き返すと
この曲そのものの意味が変わる。

さらにMVで2番の歌詞を見ると、破壊力が増す。
本編では2番は流れない、MVを見てまた涙腺を刺激される。

キミが言いそうな事書いた
書いて書いて書きまくった でさ
私は適当に聞くんだ
そしたらそれが答えるんだ
あくる日もあくる日もあくる日も
退屈で寂しくって悲しくって
泣きまくって叫びまくり八つ当たって
それも飽きて死にたくって

ここ、MV見ても最初はなんとなく孤独な日々を過ごしていたとしかわからなかったが
歌詞を見て思い描いていると、ヤチヨ(かぐや)が彩葉との疑似会話を延々と続けていた情景が見えてくる。

あらかじめ彩葉ならこう言うだろうということを書きまくる。
イマジナリー彩葉に適当になにか聞くと
そしたらそれ(書きまくった回答)が答えるという場面。
でも本当は、そこに彩葉はいない。

あくる日もあくる日もあくる日も疑似会話を繰り返し
でも当然それは退屈で寂しくて悲しくて泣きたくて
叫びまくって奴当たって飽きて死にたくなる絶対的な孤独。

この虚しさはかなり重い。
ヤチヨの8000年は“神話的な長さ”ではなく、感情のある一人の存在が耐えてきた地獄の長さとして迫ってくる。

いつか孤独は癒えるだろうか
変わらない 何もかも
それも少しの間と思おう
そんな八千代超えて

未来には彩葉がいる、たったそれだけで8000年を少しの間と思って超える
常人なら気が狂いそうになる時間。

月人のかぐやですら死にたくなった孤独の時間がある。
彩葉が全部知りたいってフシに迫った時に
フシがヒトに耐えられるものじゃないって言うのも当然だと思う。
このシーンは領域展開 無量空処に彩葉耐えたと巷で言われている。

映画を見終わったあとに、MVや歌詞を見返すことでさらに刺さる。
『超かぐや姫!』って、やっぱり本編だけで終わらない作品なんだなと思う。

超かぐや姫の「超」って「超人」たる彩葉のことでもあるけれど
八千代を「超えて」きた「超」でもあるんだよね。


歌詞の意味|彩葉という名前はいろはかるたから来ているのか

『Ex-Otogibanashi』の歌詞を見返していて、あとからふと「これ、かるたみたいだな」と思った。

キミが言いそうな事書いた
書いて書いて書きまくった でさ
私は適当に聞くんだ
そしたらそれが答えるんだ

この疑似会話はまるで上の句と下の句みたいに、言葉と言葉を合わせる状況にある。
例えば「パンケーキ食べたいな~」という上の句が読まれたら
下の句に該当する彩葉の返答を、書きまくった言葉の中から選ぶみたいな

そう思った瞬間に、「彩葉」という名前が引っかかった。
そう、いろはかるた
まさか彩葉の名前はいろはかるたから来てるのか!?
そう思ってしまうほど深読みしてしまう。

『超かぐや姫!』って、深読みをしたくなるだけの“仕込み癖”がある作品だと思う。

もしそこまで意識されているなら、ヤチヨが8000年のあいだ彩葉との疑似会話を続けていたこと自体が、
言葉を通して誰か想う行為として、名前のレベルにまで埋め込まれていることになる。

ただ泣ける、ただ重い、ではなく、名前のところまで構造が伸びている感じがして、このへんはかなり怖い。
意図されたものかどうかは断言できないけれど、この作品を見たあとだと、そこまで考えたくなってしまう。

実はどこかで由来とか語られてるかもしれないけど
情報なしで自分は歌詞を見て彩葉の名前にこう感じた。

『超かぐや姫!』のVRバトル感想|武器の設計でキャラが語られる

『超かぐや姫!』の面白さって、感情線やライブだけじゃなく
VRバトルがちゃんと楽しいところにもあると思う。
リアル寄りの日常世界であの戦闘をやると浮きそうなのに、ツクヨミ内だから自然に成立する。

しかも武器が“見た目だけの小道具”で終わっていない。
戦い方まで含めてキャラらしさが出ているのがいい。

かぐやは竹を模したジェット付きハンマー。
彩葉はキーボードを模したブーメランで、分離して双剣になり、ワイヤーで回収するギミックもある。
帝アキラは金棒に仕込み刀、さらに金棒部分が変形した銃まで使う。
こういうギミック盛りの武器はオタクが好きなやつだし、ちゃんと見応えがある。

でもこの作品がおもしろいのは、バトルが勝利の快感だけに頼っていないところだと思う。

VSブラックオニキスでは勝ち確~みたいな空気から、かぐやが罠にかかって
最後は帝が決めてブラックオニキスが勝つ。
かぐやが月へ帰るラストライブではかぐやを迎えにきた月軍と戦う
観客から見れば最高の卒業ライブ演出に見えるけれど、彩葉たちにとっては別れの場面でもある。
つまり観客の視点では満点でも、キャラの視点では喪失が残る。

超かぐや姫で主人公たちはバトルで正直負け続けてる。
でもそれが気持ちよく勝って終わる作品より、ずっと頭に残る。
バトルが“アニメの香辛料”としてうまく入っていて、作品全体を際立たせていると思った。


『超かぐや姫!』ラスト考察|「お話はもう終わり」から「まだ続きがある」へ

個人的に、この作品の核心はここだったと思っている。

かぐやが帰ったあと、彩葉はツクヨミでヤチヨ=かぐやと再会する。
8000年のあいだ何があったのか全部聞かせて、という彩葉と、かつてのボロアパートを再現したVR空間で女子会。

話の途中でヤチヨはスリープに入り、その間に彩葉はフシからかぐやの歩みを見せられる。
ヤチヨに声をかけられ目を覚ましたあと、彩葉はかぐやに抱きついて言う。

「私成長したよ お母さんとだって話せたし、かぐやがいなくたって十分ハッピーエンド。お話はもう終わり」

かぐやが月に帰ってから、前に進めた自分の報告でもあり
かぐやにこれ以上、辛い過去もある昔話を振り返らせないための区切りでもあるように見えた。
もういいよ、話さなくていいって優しく言っている感じ。

かぐやがいなくても十分ハッピーエンドだと伝えた彩葉は泣きながら言う。

「かぐやといたい」

十分ハッピーエンドだと言ったはずなのに、泣くほど欠けている存在がいる。
その矛盾で、まだ彩葉にとって本当のハッピーエンドではないことがはっきりする。

そしてヤチヨかぐやが

「もうこれで終わってもいいって思ってたのに」

とこぼし、さらに

「触れたらあったかいかなっていつも思うんだ…また彩葉といっしょにパンケーキ食べたいなぁ…」

と言う。
このときヤチヨ自身の目に涙はないのに、胸元のメンダコが涙目になっている演出もかなり刺さった。
感情を別のものに泣かせるのがうまい。

そして最後に彩葉が

「まだなんだ、このお話にはまだ続きがある」

と言う。
ここで、終わるはずだった物語が“まだ続く側”に反転する。
最初にかぐやが言った「自分でハッピーエンドにする」が、彩葉の言葉の中で受け継がれている。
このハッピーエンドにする側の入れ替わりが成長の物語となっていた。


10年後のラストが好きだった|閉じないハッピーエンドとしての着地

10年後、彩葉は開発者になっていた。
偽スタッフロール後の「もうちょい迷います」と
進路希望を取り戻したあの場面が、ちゃんと未来につながっている。

そしてもはやその分野の才女になってるだろってレベル彩葉が、かぐやのボディを完成させる。
身体を作ってもらえてリアルに復活したかぐやは、久々の重力に「重~」と言いながら、二言目は「パンケーキ!」。
彩葉は「味覚はもうちょいお待ちあれ」と返し、かぐやは「もぅ1秒だって待てないのにぃ~」と返す。

そう言うかぐや見て、彩葉は感慨深く泣きそうな目でかぐやを見つめているのが印象深かった。

敵を倒して終わり。
和解して終わり。
再会して終わり。
そういう安易な閉じ方じゃない。
再会したあとも、まだ味覚はこれからで、体もこれからで、未来が続いていく余地がちゃんとある。

だからこのラストは、“めでたしめでたし”で閉じるハッピーエンドではなく、
閉じないハッピーエンドとして好きだった。
続いていくからこそ、見終わったあとも残る。


綾紬芦花を考察|裏設定を知ると見え方が変わるサブキャラだった

ここまででも、かぐや・彩葉・ヤチヨの3人だけでいくらでも語れる。
この3人の関係だけでも、見終わって「はい満足、解散」にはならない。
それなのにこの作品は、その外側にさらに余白を置いてくる。

その代表が、綾紬芦花(あやつむぎろか)だった。

初見では、真実とセットで映ることも多いし
実は真実とデキてたりする?と思った。
(真実は裏設定で彼氏して10年後は結婚してたらしいので違ったが)

芦花は公式ガイドブックで、彩葉に対して特別な感情を持って接していたが
踏み込めずにいたと知ってから、かなり見え方が変わった。
ただの友達じゃない。
しかも、自分の感情を押し出すタイプでもない。
昔ながらの百合でいう、片思いを隠して親友の幸せを願うタイプの切なさがある。

そうなると、過去のいろんな場面が一気につながってくる。
本編だけではわからないけれど、裏設定を知った瞬間に距離感が意味を持ち始めるキャラだった。


芦花の涙を考察|KASSENで見せた涙は彩葉を想う感涙に見えた

芦花で特に引っかかったのが、KASSENで彩葉とかぐやが笑い合うシーンの表情だった。
かぐやとのやり取りの中で、彩葉が心の底から笑っている。
その姿を見た芦花が、涙を浮かべている。

裏設定を知らなかった最初の時点でも、このシーンには何か感じるものがあった。
あとから芦花の気持ちを知ると、意味が一気に変わる。

本編にはないシーンで、MVで窓ガラスに映る彩葉が泣いてるシーンがある。
その直後に芦花が話しかけると、彩葉は友達に笑顔を向ける。
でも心で泣いているけれど、顔は笑っているのは
本編で「私みたいになっちゃったんだ」って
ヤチヨの正体を知った彩葉がつぶやいたのにも効くシーンだが

KASSENで見せた彩葉の笑顔た見る芦花の表情から
彩葉が心で泣いて笑顔を作っているのを感じていたからこそ
MVで芦花が話しかけたシーンがあるのだと繋がる。

かぐやと笑い合う彩葉を見ての芦花の涙は、悔しさではないと思う。
「自分じゃなかった」という涙でもない。
たぶんあれは、「やっと本当に笑ったね」という感涙だ。

たとえその笑顔を引き出したのが自分でなくても、嬉しい。
そこにかなり純粋な想いを感じた。
悔しさではなく、想いの涙。
そういう涙に見えた。


芦花の「彩葉が生きていればそれでいい」が静かに重い|優しさと無力感が混じる

かぐやが月に帰ったあと、彩葉は友達にも連絡を返せないくらい落ち込んでいる。
そのあと学校に来て、芦花たちに「連絡返せなくてごめん」と謝る彩葉に対して、芦花は言う。

「彩葉が生きていればそれでいい」

このセリフ、すごく静かなのに重い。
やさしい言葉ではあるんだけど、ただの慰めには聞こえない。

そこにはたぶん、優しさと同時に無力感も混じっている。
芦花は彩葉のしんどさを見ている。
でもかぐやみたいに、その奥まで踏み込んで変えていくことはできない。
自分では救えないことを、たぶんわかっている。

だから「元気になってほしい」でも「私が支える」でもなく、
生きていてくれればそれでいいというところまで願いを落としているように見える。

でも、それは軽い諦めではなくて、かなり深い想いでもあると思う。
彩葉が生きているだけで、芦花にとっては世界が回る理由になる。
そこまで言えてしまいそうなキャラに見える。

メイン3人が神話とか時間とか運命みたいな大きいスケールの愛で動いている横で、
芦花だけが“現実に近い愛”を担当している感じがある。
だからあとから妙に刺さる。


芦花は負けヒロインというより、視聴者がハッピーエンドにしてやりたくなるキャラだった

『超かぐや姫!』は、かぐやが最初に言ったように「自分でハッピーエンドにする」話だった。
そして後半では彩葉も「ハッピーエンドまで付き合ってよね」と言う。
ハッピーエンドを目指す者たちの物語だ。

そういう意味で、芦花はちょっと違う場所にいる。
芦花は自分でハッピーエンドを取りに行くキャラではない。
踏み込まないし、自分の願いを前面に出さないし、他人の幸せを優先してしまう。

だから逆に、この子に対しては視聴者が
「芦花をハッピーエンドに連れていく」
みたいな気持ちで二次創作するキャラになる。

見ている側に「この子の続きをどうする?」と委ねてくるキャラ。
それが芦花なんじゃないかと思った。

裏設定を知ると、「芦花のハッピーエンドは!?」となる。
光の百合オタは芦花も幸せになる続きを
闇の百合オタは切ない秘めたままの悲恋を思い描くことができる。

訓練された百合オタが行き着く先が芦花かもしれない。


「いろかぐ」の中に“ろか”が挟まっている発見が、ただの言葉遊びで終わらない

これはかなりオタクっぽい話なんだけど、本来は彩葉とかぐやのカップリング表記である「いろかぐ」。
そこに“ろか”が挟まっている、という意見をXで見たとき納得がいった。

「いろかぐ」というメインの中に、“ろか”が挟まっている。
しかも芦花って、関係を壊す形で挟まるキャラじゃない。
奪わないし、競わないし、壊さない。

むしろ本編のカットで、芦花がかぐやに膝枕してるカットもあったし
「いろかぐにろかは挟まれるんだよ!!」
挟まっていいそう公式が見せたシーンのように思えた。
むしろ芦花が、いろかぐに挟まっても状況証拠だ。

百合に挟まる男は古来より消されるべき存在として満場一致するが
芦花はむしろ歓迎される存在である。

すでに彩葉の周りは、かぐやとヤチヨで両手に花の状態。
もうこの時点で昔ながらの「誰か一人を選ぶ」構図ではない。
いろはーレムに芦花という一輪の花が増えてもいいじゃありませんか?みたいになる。

山下監督の“隠したがり”が、この作品を語られるものにしている

山下監督がインタビューで、「あまり表に一番深い層を出すのが苦手」「暗いヤツが明るい振りしてるのってエモくない?」と語っていたのを読んで、かなり腑に落ちた。

この作品は、一番深いところを“あるもの”としてちゃんと沈めたまま、全部は表に出さない。
だから観ている側の中で考察として世界が広がる。

ヤチヨがそうだし、かぐやもそうだし、彩葉も芦花もそうだ。
みんな思い思いに底には何かが沈んでいる。

この“作中で全部は語らない”感じがあるからこそ、見終わったあとに考え続けてしまう。
語られる作品って、エヴァとかFateなど作品にユーザーが考察する余白がある。
観終わった瞬間に満足して、はい次、とはならない。
見返したくなる。深掘りしたくなる。語りたくなる。

ぶっちゃけ、この余白って語られる名作の条件みたいなところがあると思う。
見ただけで全部わかる作品より、何かがまだ残っている作品のほうが
見終わってからもずっと長く頭の中に住み続ける。

『超かぐや姫!』はまさにそうだった。
視聴者の感情や解釈は終わらない。
オタクが勝手に語り始めるタイプの作品で、それがこの作品の強さなんだと思う。

『超かぐや姫!』は見終わってから始まる映画だった

自分にとって、多くの映画やドラマは一回見たら「見た」のスタンプが押されて次に行ける。
それは別に悪いことじゃないし、普通のことだと思う。

でも『超かぐや姫!』は違った。

見終わったあとに歌詞を見返したくなる。
裏設定を知りたくなる。
考察を漁りたくなる。
サブキャラの意味まで気になってくる。
そしてもう一回見たくなる。

この「もう一回」が自然に出てくる作品は、そんなに多くない。
しかもこの作品の場合、見返すことがただの反復じゃない。
1回目では物語を追い、見返すことで伏線に気づき
さらに裏設定を知ることでキャラの距離感まで変わる。
見れば見るほど意味が解凍されていく。

メイン3人だけでも十分に語れるのに、その外側に芦花みたいな“まだ掘れる余白”まである。
だから見終わっても終わらない。
むしろ、見終わってからオタクが勝手に語り始める。

こういう作品は名作なんだと思う。
見た直後の満足感だけじゃなく、時間が経っても脳内に住み続けるからだ。

Netflixで見たのはもう2週間以上前で映画館で見たのは1週間以上前なのに、まだ頭の中にいる。
たぶんこれは、視聴完了じゃなくて同居開始だった。

『超かぐや姫!』は、流し見を許さず、見返すほど深みにハマり
さらにサブキャラにまで考察の余白を残してくる映画だった。

サブキャラクター駒沢乃依に関しては
見ているとVRCで感じたことからの着想があるのでそちらもどうぞ。

家では気になるところだけ改めて再生とかしていたが
じっくりニ周目は映画館で見て、大画面で集中して眺めることもできた。
ヤチヨのミニライブに握手券がついていて
終わり際にヤチヨが彩葉に忘れ物って言って手を握っていたのが
握手の忘れ物だったがわかったし

ブラックオニキスとのKASSENで真実が帝のファンサで倒れた時に
かぐやが衣装からメロンパンむしり取ってたのと
彩葉が食べ物の画像で真実を起こそうとしてたのもニ周目でじっくり見れた。

真実がフード系インフルエンサーで食いしん坊設定なんだなーってわかったから納得した。

そういう細かい発見ができるのも、周回視聴の楽しみ方かも。

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この記事を書いた人

徳島在住。徳島・四国を中心に、実際に訪れた場所や神社仏閣、食べたもの、買って使ったもの、観た作品の感想を、自分の記録として書いています。

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