センスがある、センスがない。
ファッションから仕事、芸術、そして日常生活に至るまで
「センス」という言葉は、あらゆる場面で語られている。
そんな曖昧な言葉について、明確な輪郭を与えてくれた人物がいる。
それが楠木建先生だ。
ある本との出会いをきっかけに、「これこそがセンスの真髄だ」と感じ
自分の中にセンスの定義が、少しずつ形を成していった。
その本の名は📘『戦略読書日記』
名著『ストーリーとしての競争戦略』の源流ともいえる一冊。

本質を抉り出す思考のセンス
本書は、「読書の戦略」や「戦略的な読書法」を指南するものではない。
まえがきにもある通り、楠木先生が“厳選した本”に触発されて考えたことを、
ただ読者に伝えるために綴られた一冊である。
いわば、選書と着眼のセンスが凝縮された“思考の記録”。
数々の本に対する感想と洞察が語られている中で、
このブログでは、あえて「序章」の“センス”に関する部分だけに焦点をあてたい。
というのも、その語り口があまりにも腑に落ちたからだ。
曖昧だった「センス」という言葉に、初めて明確な輪郭が与えられた。
これが、自分の中にあった価値観と見事に結びついていった。
ちなみに本書を読んでも、「すぐに役立つビジネススキル」が身につくことは約束されていない。
むしろ、そういった即効性を求める方には、まったく向いていない本かもしれない。
その点だけは、楠木先生も前置きしている。
スキルに傾斜している時代
楠木先生は、近年のビジネス書が“スキル偏重”に傾いていると語る。
書き手の結論は、たいてい
🟩 「これからは◯◯のスキルを身につけよう!」
に帰着する。
これは、ポジショントークである可能性もあれば、
“スキル”を求める読者が多いことの時代的な帰結かもしれない。
✅ スキルの特徴とは?
- 見える化できる(資格、TOEICスコア、できること)
- 習得の道筋がある(教科書・手順・反復練習)
- 努力を示しやすい(プロセスが明確)
努力すれば改善できる。
そして、その努力もまた“見える形”で示しやすい。
スキルとは真逆の「センス」
対して「センス」は──
- 曖昧である
- 習得法が定型化されていない
- 数値化できない
- 人に示せない
「ある人にはある。ない人にはない」
そんな風に割り切れば、たちまち🟥苦情が殺到する。
だからこそ、現代では「スキル」に傾倒してしまう。
再現性のないものより、再現性のあるものの方が、組織でも評価されやすい。
その結果、センスは軽んじられていく。
センスとは、モテるかモテないか
思春期に多い悩みの一つ、
🟨 「どうすればモテるのか?」
という問いを思い出してほしい。
巷には「モテるテクニック」「禁断の恋愛法則」など、
“スキル情報”としてのモテ指南があふれていた。
私自身、そういった商材を買ったことはないが、
目にして、心が揺れたことは確かにあった。
📘 ゲームの攻略本なら、誰がやっても同じ結果が返ってくる。
だが、人間関係はそうではない。
同じセリフ、同じ行動でも、
“誰がそれをするか”によって、相手の反応はまるで違う。
モテる人はなぜモテるのか?
その理由は千差万別。
誰にでも真似できるものではなく、数値化もできない。
けれど確かに、それがあるかないかで、結果は変わる。
そう──
🌟 それこそが「センス」なのだ。
センスは直接育てられない、しかし「育つ」
そもそも――センスとは一体、何なのか?
その問いに、楠木建先生が示してくれた“ひとつの答え”があります。
核心が、そこにありました。
センスとは「文脈に埋め込まれた、その人に固有の因果論理の総体」を意味している。
戦略読書日記より引用
平たくいえば「引き出しの多さ」
優れた経営者はあらゆる文脈に対応した因果のロジックの引き出しを持っている。
しかもいつ、どの引き出しを開けて、どのロジックを使うかという判断が的確。
これもまたセンスである。経験の量と質、幅と深さが「引き出し能力」を形成する。
この言語化を読んだとき、
私の中にぼんやりとあった「センス」という言葉の輪郭が、
はじめて明確に立ち上がった気がしました。
つまり――
- センスとは、自分の中にある“引き出し”に入ったロジックの多さ
- その中身を“的確に使う判断力”
- ロジックを整理し収める“引き出しそのものの幅・深さ”
- そしてそれらを活かす“経験の厚み”
私たちは皆、何らかの「引き出し」を持っている。
でもその中身がスカスカだったり、
どこに何が入ってるか分からなかったり、
そもそも引き出し自体が小さすぎることもある。
経営の文脈に限らず、
たとえば「モテ」の文脈で言えば――
- 会話や話題の引き出し
- 服装・姿勢・発声といった非言語コミュニケーション
- 相手の感情を察知し、言葉を汲み取るセンス
すべてが因果のロジックと、それを取り出す“引き出し力”に関わってくる。
🎨 イラストのセンスにも、この考え方は当てはまります。
- どの角度から描くか?
- どんな線を引くか?
- 表情や目線、髪、手足、細部の描写をどう処理するか?
どれも「過去の経験」と「観察」によって身につけた
“引き出しの質”と、それを活かす“判断のセンス”が問われる。
プロでも資料を使いますが、
その資料から“どこを取り出し、どう自分の線にするか”は、経験と応用力にかかってくる。
産まれた瞬間に私センスありますという人はいないはず。
いま絵が上手な人たちも、過去も現在も確かな研鑽の日々にいるはず。
人から見れば「あの人センスあるから」と言われても
努力した本人はセンスの引き出しに経験と扱い方を蓄積してきた過去がある。
どんな分野であれ、
一発で成功するノウハウなんて、存在しない。
失敗と成功を繰り返し、経験を積む。
その積み重ねがやがて「引き出し」となり、
それを活かす判断力が育っていく。
だから、センスは直接“鍛える”ことはできなくても――
確実に“育てることができる”。
疑似でもいいから場数を踏む
「センスがある人間」だけが活躍できる世界なら、センスがない者はどうすればいいのか?
誰しも、そんなふうに絶望してしまう瞬間があるはずです。
実践に勝る経験はないが、そうそう簡単に経験できない実践もある。
楠木建先生は、実践の“次善の策”として、こう語る。
センスを磨くには、疑似場数が必要だ。
その中でも特に有効なのが、
センスの良い人のそばにいて、その一挙手一投足を観察するという方法。
いわゆる「鞄持ち」や「シャドーイング」がそれにあたります。
自分の周囲の人でセンスがよさそうな人をよく見る。そして見破る。
戦略読書日記より引用
「見破る」というのは、その背後にある論理をつかむということだ。
センスのいい人をただ漫然と観察したり真似するのではなく、
なぜその人はそのときにそうするのか、「なぜ」をいちいち考える。
これを繰り返すうちに、自分と比較してどう違うのか、
自分だったらどうするか考えるようになり、自分との相対化が起こる。
そうして自分の潜在的なセンスに気づき、センス磨きが始まる。
疑似場数を踏むとはそういうことだ。
実際に、センスのいい人のそばに何年いても成長しない人がいる。
そういう人は「見るだけ」で終わっていて、「見破る」段階に至っていない。
見破るとは、つまり――
- 自分と比較すること(=相対化)
- 相手の判断の背後にある「なぜ」を考えること
- その過程で、自分に足りないロジックを掘り出すこと
これらを経て、ようやく「自分に固有のセンス」が育ちはじめるのです。
「自分で考えろ」は、じつは高度な要請
よく聞く言葉ですよね。「自分で考えろ」って。
でもこれ、“見破る”というプロセスの存在を知らずに言われたら――
正直、ただの丸投げなんです。
💡 やっている姿を見せてくれるなら、まだ“観察”くらいはできる。
でも、最悪のケースでは観察対象すら存在しない。
そんな状況で、「さあ、考えてみろ」と言われる……
まさに、無から有を生み出せと要求されるのと同じです。
センスのある人なら、たしかに勝手に学び取れるかもしれません。
でも、誰もがそうじゃない。
だからこそ――
観察の意義とは、見破るために「なぜ」を考える行為なのだと、
その原理ごと伝える必要があるのではないでしょうか。
私自身、楠木先生のこの言語化に出会ったことで、
「自分で考えろ」という言葉が内包する、
複合的なプロセスの存在に深く納得しました。
近くにセンスが良い人なんていない
素敵な職場なら、身近にセンスが良い人が転がっているかもしれない。
でも、誰しもそうじゃないですよね。
少なくとも私は、学校や職場で
「この人の一挙手一投足を真似したい」とか
「こんな人生を歩んでみたい」と思える人に、出会えませんでした。
私が憧れるようなセンスの持ち主は、周囲にはいなかったんです。
もし、あなたのまわりにいるのなら――
おそらく、あなた自身がすでに“センスある人”だと見なされているかもしれません。
では、センスがいい人が近くにいない場合は?
もちろん、理想は実際にセンスの良い人のそばに身を置き、学ぶこと。
けれど――現実には、そんな人が周囲にいないことのほうが多いのではないでしょうか。
そんなとき、疑似度は高まるものの、
日常的かつ手軽に“センス磨き”ができる手法があります。
それが――読書。
論理を獲得するための深みとか奥行きは「文脈」の豊かさにかかってる。
戦略読書日記より引用
読書の強みは文脈の豊かさにある。
空間的、時間的文脈を広げて因果論理を考える材料として
読書は依然として最強の思考装置だ。
この一節には、読書の“本質”が詰まっています。
思考の筋肉を鍛えるには、豊かな文脈と因果関係に触れることが不可欠。
そして、それをもっとも効率よく、手元で叶えられるのが――読書なのです。
楠木先生は一般論として
戦略のセンスを磨くには「フィクション」より「ノンフィクション」が向いていると語っています。
作者がロジックを作りたい放題のフィクションでは論理が緩くなるが
ノンフィクションなら具体的な事実のロジックが強いというのです。
私自身、読書なんてまったくしてこなかった
正直に言えば――
私は読書なんて、ほとんどしてこない人生を歩んできました。
楠木先生のように「昔から本が好きで……」という話、よく見かけますが、
私にはまったく当てはまりません。
私にとって本というのは、
ただの“手持ち無沙汰をごまかすためのファッションアイテム”でした。
学生時代、ポケットに文庫本を忍ばせていたのは、単なる小道具として。
そんな自分でも、
最近では、こうした本を読むことが「好き」に近づいてきた気がします。
(※とはいえ、月に一冊読むかどうかというペースですが……)
読んでいるジャンルも、
フィクションではなく、ノンフィクションや自伝・評伝が多いです。
それはきっと、
無意識のうちに「文脈を収集しよう」としていたのかもしれません。
物語よりも“現実”に根ざした経験や思考の積み重ねにこそ、
🌱 自分なりの“センスの文脈”を見出そうとしていたのだと思います。
本は牛丼、フランス料理のフルコースではない
センスを磨くためのアプローチの中で、
読書はもっとも「早い・安い・美味い」方法だと、楠木建先生は語っています。
もちろん、実体験として丸ごと経験できるなら、
自ら試行錯誤を重ねてセンスを磨く
そんなフランス料理のような“フルコース”型の学びのほうが、高価(効果)かもしれません。
けれど、それが常にできるとは限りません。
その点、読書は圧倒的に“低コスト”で、
しかもいつでも・どこでも・日常に取り込める。
スポーツに例えれば毎日シビれるような試合はできないが
戦略読書日記より引用
ジムでの筋トレや走り込みならばルーティーンとして取り込める。
読書は経営センスを磨き、戦略ストーリーを構想するための筋トレであり走り込み
即効性はない。しかし、じわじわ効いてくる。
3年、5年とやり続ければ、明らかな違いが出てくるはずだ。
読書に即効性はありません。
それに私のように読書量も少なければ、なおさらです。
それでも、まったく何もしないよりかは(たぶん)良い。
言うなれば、チョコザップ的な読書習慣です。
読書量は決して誇れるものではありません。
それでも、まったく読まなかった頃よりは、
確かに思考が磨かれている気がする。
それが「センスの引き出し」にどれほど直結しているのかは、
まだわかりません。
でも、もし本を読んでいなければ――
こうして“思考を綴る”という行為そのものすら、
きっとしなかったと思います。
だからこれからも、
“自分なりの読書日記”を、
このブログに静かに記していけたらと、そう思っています。
楠木先生の戦略読書日記、ここでは序章しか紹介していませんが本編ももちろんオススメです。

自分が持ってるのは赤いハードカバー戦略読書日記なんだけど白い文庫本があった。
お好みで。